Blue Cafe

ゲーム好き占い師のつれづれごと

最近ハマっているゲームの話

ウマ娘」なるスマホ向けゲームを始めた。基本無料のオンラインゲームの常として、このゲームもガチャがあり、課金すればするほど強くなるシステムではある。「ウマ娘」はもともとゲームではなくアニメだ。実在の競走馬を萌え系の女の子に変えるという斬新なスタイルで、そのキャラ化には賛否両論ある。

わたしはもともと競馬もゲームも好きで(とはいえ、年齢的に競馬大ブームの頃は生まれていないor子供の頃だったから年季の入った方から見るとニワカである)競馬好きの夫と一緒にダビマスをやっていたのだが、ウマ娘は当初非常に抵抗があってアニメも見ないしゲームも触らずだった。夫も萌え系が好きなタイプではないため「牡馬まで女の子になると意味不明ww」と一切ゲームをするつもりはない様子だった。

 

しかし2021年4月現在、結構ハマっている。

ゲームの仕様上、廃課金or無課金が一番楽しめそうなので、我々庶民は無課金&有償確定ガチャの回すのだが、アニメのDVD売上の一部は引退馬の支援にまわされると聞いているので、もしゲームの売上も同じように引退馬支援に使われるなら大手を振って課金できるなぁなどと邪なことも考えている(笑)

ウマ娘のゲームにハマったきっかけはアニメである。もともとアニメが先で、ゲーム化を企画したものの完成して世に出るまで何度も試行錯誤され、延期されてきただけに、出来はかなり良い。ウマ娘は、たとえばゴールドシップなど有名なG1馬を擬人化して、かわいい女の子が「トレセン学園」(栗東とかのトレーニングセンターの略だな)に入学してから、ジュニア期・クラシック期・シニア期と3年間育成し、鍛え上げて好成績を残したウマ娘をレースに出すという流れになっている。育成はダビマスなどの調教とは違って、パワプロ方式だそうだ。(わたしはパワプロをほとんどやったことがないから分からないのだが)運によってつくスキルも変わったり、体調の変化も練習量に大きく影響し、時にイライラするのだがなぜかまた遊んでしまう、不思議な魅力を持ったゲームだと思う。

何度もリリースを延期したそうだが、おりしも競馬界は2020年、コロナによる無観客戦の中でオルフェーヴル以来9年振り8頭となる三冠馬(それも初の親子三冠馬)を輩出し、人気が上昇し、さらに2021年桜花賞ではクラシック史上初となる白毛馬の優勝という華々しい活躍中での正式リリースとなったため、タイミング的には2019年に出すより良かったのではないかと思う。

ウマ娘は「牡馬でも萌え系乙女になってしまう」という内容により、競馬ファンはもちろん馬主もNGを出している場合があるそうで、有名どころでも出演していない馬が多い。

その最たるものが、2020年三冠馬コントレイルの父であるディープインパクトである。

しかしこの馬が万が一実装されてしまったら、無課金ユーザーとしては指をくわえて廃課金者の使うディープを眺めるしかなくなり、つらい気持ちになってしまうのでこのまま参戦なしで良いのかもしれない。

ディープを参戦させたらゲームの売上はさらに上がってとんでもない競馬ブームが来るぞ、とウマ娘から競馬に興味を持ったユーザーの意見を時々見かけるが、それはおそらく思い上がりである。競馬というのは非常に歴史の長いもので、農林水産省管轄のある意味国家的な事業だ。そして競馬ファンは多く、特に名のあるG1レースになると多い時で10万人を超える観客が詰めかけるような競技だから、今さらゲームを利用して知名度を上げたりブームを作り出す必要はない。ただ、個人的に現役の競馬ブームよりも、引退馬の余生について、これまで競馬は好きでも見ようとしなかった裏側を競馬ファンウマ娘ファンともに見つめなおすきっかけになると良いな、と思っている。

日本の場合、乗馬人口が圧倒的に少なく乗馬文化も浸透していないため、同じように競馬が盛んな欧州や米国と違って引退馬の活躍できる場所が少ない。もちろん、欧州や米国であっても現役時代に成績を残していない馬は闇に葬り去られるーつまり殺処分される場合もあるが、日本よりは生産馬数が少なくレース以外の活躍の場(乗馬クラブあるいは牧場など)が多いし、そもそものレース数も多いため活路を見出せる可能性も高い。どうしても日本の場合は国土が狭く、特に牧場に向いた平坦な土地が少ないだけに引退馬が生活できるだけのスペースを物理的に確保できないこともある。

スペースの問題だけではない。馬の飼育費は飼料だけでも年間100万近くいくのだとか、それ以外にお手入れをする費用、医者にかかる費用、何もかもが当たり前だが犬や猫を飼うように気軽にできるものではない。それだけに引退馬の行く末は競馬関係者であっても頭を悩ませる問題だし、今後ゲームと連動してさらに若年層への競馬人気が高まるのであれば、もっと支援の手が行き届けば良いなと心の底から願っている。

雑記2021年3月

2006年から10年ほどブログを続けていた。そのブログサービスが2019年に終了し、自分の結婚などもあり、ここ数年は長文を作成する時間がなくてブログから遠ざかっていた。

現在のスマホは両手で操作をしなければならず、重量もそれなりにあるため長文を打つのに向いていないと思う。少し古い機種だと文字数が多くなることで動作が重たくなり、フリーズしたりアプリが処理落ちしてしまったりもして厄介だ。昨年PCを購入してからは文字を打つのが楽になったが、今度はTwitter全盛で長文を打つ機会がない。140文字で考えをまとめるのはとても大変(というか出来ない)だが、140文字しか打たなくて良いのはとても楽で、どうでも良いことを気軽につぶやける。まさに【呟く】の名前にふさわしい。

だが、Twitterは個人のつぶやきだから楽しめるものであって、本来論議するのには向いていない。140文字で、そのあとのスレッドがツリー式になってしまうため、長文を打っても次につながっているツリーを読まないと全文理解できない。全文理解できないのに、最初の140文字だけを文面通りとって炎上するケースが増えている。140文字制限のSNSが盛り上がれば盛り上がるほど、思考能力と読解力、そして文章作成能力が失われていると思うのは考えすぎだろうか?

Twitterは「つぶやく」のには最適だが「思考」の大敵である。

ブログであれば他人の目に触れることは少ない、特に長文になればなるほど、わざわざ無名の人間の右往左往する文章なんて読む暇ねぇよってなわけで読まれることはほとんどない。だがそれが良い。Twitterが一時の感情や感動を伝えるものだとすれば、ブログは長期的な目線で思考や傾向を自ら振り返るのに適している。カテゴリ分けしておけば数年経ってまた読み返すこともできるし、だらだらと書くうちにほんの数十分でも考えや趣向が変わっていくことがあり、そのすべてを克明に記録しておくことができる。Twitterでは情報の更新が早く、自分のつぶやきさえも新しい自分のつぶやきにかき消されてしまう。それはそれで、残しておきたくない黒歴史も軽く記載できるので一種のはけ口としては良いだろう。だが、他人と深くかかわりすぎるとトラブルの元となる。そして鍵垢にでもしない限り、向こうから土足で読解力もないのに踏み込んでくる人が時折現れる。フォロワーの誰かがいいねをつけたりRTすることで、自分にはまったく関係のない、読みたくないような話も流れてくる。フォロー人数が多ければ多いほど、受動的に話題が流れてくる。これはある意味テレビと同じようなものかもしれない。自分が見るつもりのなかった話題に触れて、ためになることもあればイライラすることもある。テレビは9割がイライラするし、Twitterも8割くらいはどうでも良いしょうもない話題ばかりだ。

話題に上るのは良い。トレンド入りしたり、逆に炎上して話題になるそれを発信する人たちは何かしら考えがあって発信しており、世の中に影響をもたらす人々だ。彼らの存在は立派であり、尊敬に値する部分が多々ある。しかし、世の中を操作しようとして発信されるいくつかの情報を信じ込み、あたかも宗教のように拡散させようとする人がいる。これはテレビのワイドショーを見て、その内容を信じ込む人々とまったく同じだ。正しくない情報が混ざっている可能性もあるのに疑うことなく、人に言われたことを「有名な〇〇が言っていたんだから正しい」というように周りにも押し付けるタイプが少なからずいる。善人ではあるが馬鹿な存在で、しかしこの世界を陰から牛耳る存在(陰謀論的な)があるとすれば、誰よりも操りやすい層だろう。

マーケティング理論の中に「2:6:2の法則」というものがある。これは、たとえば店舗販売で言うなら、立ち寄る客の2割は最初から買う客、2割は絶対買わない客、残りの6割は商品の質や値段、在庫状況や接客などいくつかの要因によって買う客になる可能性があり、この6割のうちできる限り多くに商品を販売することで売り上げが上がるというものである。

組織にも通用する理論で、新入社員の2割は放っておいても成績が上がる、残りの2割は基本的に遅れがち、間の6割を育てていかに上の2割を増やしていくかが人材育成の要だといわれている。ちなみに残りの6割を育てると、この中にまた、よく育つ2割、あまり伸びない2割、中間の6割が生まれる。

下位の2割を切り捨てて上位ばかりを育てても結局上位の中の上位2割、下位2割に分かれてしまう。下位2割を切り捨てながら生きてきたのが織田信長、下位2割を気遣ってきたのが豊臣秀吉、中位6割を増やしてきたのが徳川家康だといわれている。

話をTwitterに戻そう。ワイドショーを見ている中で信じ込んでいるのは2割、残りの6割は懐疑的、否定的ではあるが見ている。Twitterも同じで、たとえば炎上する案件について、炎上を責め立ててさらに炎上させる人間は2割、6割の人間は静観しながらも実は興味津々で炎上を起こした人間を責め立てたり、逆に炎上させている人間を否定したりしている。話題から少し遠いところにいるが関わってはいる層だ。ワイドショーでもこの6割は懐疑的な視点を持ちながら、ワイドショーを見てはいるし、関連する話題にはよく乗っかり意見を述べている。残る2割は炎上案件にまったく興味がないし、ワイドショーは見ていないから話題にも上らない。個人的にはこの2割が一番の知識層であり、本来もっと口を出すべきだと思うのだが、この2割はとても静かすぎて勢いがないから表にほとんど出てこない。

日本以外の国では懐疑的な視点を持ちながらも興味は示している6割のうちからデモ隊などが出てくる。それによって残りの人間も真剣に物事を考えたり分析するようになるのだが、日本ではこのデモ隊などを煽動する人間が少なすぎて水面下での批判だけになってしまう。

このところ、世界はコロナの流行でさながら第三次世界大戦である。

国と国が戦っているわけではなく、世界中が同じウィルスに手を焼いているのだから世界大戦はおかしいと思うかもしれない。しかし、国と国の行き来が容易ではなくなり、経済が低迷し、様々な事柄を我慢させられるこの状況は、第二次世界大戦下に実は相似している。

着せ替えゲームって楽しいね

コロナが世界的に大流行してから1年が経過した。外務省の渡航情報は世界中が退避勧告ばかりで、まるで第三次世界大戦だ。日本でも飲食店の時短要請など、流行前と同じ生活が戻ってくる日が果たしてやってくるのだろうか、と思ってしまうほど日常生活が変わってしまった。

と、まじめな書き出しだが、外出する機会が減った分、仮想世界のアバターでおしゃれをするという行為に最近はどっぷりと浸かっている。オンラインのアバターは太らないし年も取らないし、夏にコートを着ても冬に水着を着ても、暑くも寒くもない。短い髪の毛をすぐに伸ばせるし、顔面の整形もすぐにできる。なりたい自分になれる、というのとはまた違うけれど、普段絶対にしないようなロリロリの服装もできるし、和装もできるし、男子にもなれる。一日の大半を着せ替えに費やし、いったい自分は何をやっているんだ、時間の無駄遣いも良いところだ、と思う反面、コロナで様々な経済活動が停滞している今、ある意味最高の過ごし方もできていると思って自分を肯定し、生きている。